プロフィール

吉良州司のプロフィール

  • 氏名:吉良州司(きらしゅうじ)
  • 生年月日:1958年3月16日生まれ

  •                (現在 50歳)
  • 身長:176センチ
  • 体重:61キロ
  • 血液型:B型
  • 議員現職
    民主党『次の内閣』ネクスト内閣府担当副大臣
    衆議院内閣委員会委員
    衆議院政治倫理審査会委員
    民主党大分県連代表

  • 代表的な元職
    予算委員会委員
    外務委員会委員
    経済産業委員会委員
    文部科学委員会委員
    決算行政委員会委員
    倫理選挙特別委員会理事
    イラク支援特別委員会委員
    国家基本政策委員会委員
    民主党副幹事長
    民主党政策調査会副会長
    民主党役員室次長
    民主党国際局副局長
    民主党広報戦略委員会製作副局長
    日商岩井米国会社ニューヨーク本社部長
    日商岩井課長

 

ニューヨーク駐在(5年半)やブラジル留学(1年)を含め、欧米・中南米・アジア諸国36カ国を商談等で訪問、実に海外出張は150回を超え、移動距離は地球約80周分に相当。大分県にも出向し、商社マンとしては珍しく行政を経験、故郷大分の地域振興、農業・商工業を肌で学ぶ

 

趣味は、ほぼ全てのスポーツ・旅行・読書(特に歴史小説)・駄洒落など。スポーツは野球・サッカー・バスケットボール・バレーボール・卓球・テニス・ゴルフ・ボーリングなどの球技全般および山岳。中学時代は野球部(遊撃手、一番打者)ながら助っ人として大分市、大分県の陸上大会に参加。200m走(市のみ)、走り高跳び(市、県)、800mリレー(市、県)にて3位を含み全種目で入賞。大学時代は山岳会「東大法学部山の会」リーダーを務め、岩登り・冬山を含む山岳経験豊富。

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吉良州司の沿革

 

 
項目 内容

1958年
(昭和33年)

大分県玖珠町に男三人兄弟の次男坊として生まれる
1964年
(昭和39年)
大分市立津留小入学、別府市立南小、中津市立南部小学校(昭和45年卒業)
1973年
(昭和48年)
大分市立城東中学校卒業
1976年
(昭和51年)
大分県立大分舞鶴高校卒業
1980年
(昭和55年)
東京大学法学部政治学科卒業
日商岩井株式会社入社、人事部配属
1984年
(昭和59年)
ブラジル研修、ジュイスジフォーラ連邦大学留学
1985年
(昭和60年)
ブラジルより帰国、電機部配属
1989年
(平成元年)
大分県出向。企画総室地域振興課、農政部流通園芸課、商工労働観光部産業振興課
1991年
(平成3年)
日商岩井(株)電力プロジェクト部帰任
1995年
(平成7年)
日商岩井米国会社出向。 ニューヨーク本社 産業プロジェクト部課長
1997年
(平成9年)
日商岩井米国会社 ニューヨーク本社 産業プロジェクト部部長
2000年
(平成12年)
日商岩井(株)東京本社帰任、医療システム部第一課課長
2002年
(平成14年)
日商岩井(株)退職。世の中を良くしたいと政治を志す
2003年
(平成15)4月
大分県知事選出馬 
草の根選挙で295,886票(有効投票数の44.8%)獲得するも2万6千票及ばず次点    
2003年
(平成15)11月
無所属で第43回衆議院議員選挙に出馬し、大分県第1区で初当選(105,628票)
2003年
(平成15)11月
衆議院文部科学委員会委員
衆議院国家基本政策委員会委員
2004年
(平成16) 1月 
衆議院予算委員会委員
2004年
(平成16)10月
衆議院イラク支援特別委員会委員
2004年
(平成16)11月
民主党入党
民主党大分県第1区総支部長、民主党大分県連特別代表
2005年
(平成17)9月
第44回衆議院議員総選挙で大分県第1区に出馬、94,595票を獲得して、2期連続小選挙区当選。
2005年
(平成17)9月
民主党政策調査会副会長就任
衆議院外務委員会委員
衆議院経済産業委員会委員
2006年
(平成18)2月
民主党大分県連代表
2006年
(平成18)4月
民主党役員室次長就任
民主党国際局副局長就任
民主党広報戦略委員会製作副局長就任
2006年
(平成18)10月
民主党副幹事長就任
衆議院決算行政委員会委員
衆議院倫理選挙特別委員会理事
衆議院政治倫理審査会委員
2006年
(平成18)12月
民主党大分県連代表 無投票再選
2007年
(平成19)4月
民主党国際局副局長再任
2007年
(平成19)9月

民主党『次の内閣』ネクスト内閣府担当副大臣就任
民主党国際局副局長再任
衆議院内閣委員会委員
衆議院政治倫理審査会委員

 

●衆議院内閣委員会委員
●衆議院政治倫理審査会委員

 

●民主党『次の内閣』ネクスト内閣府担当副大臣
●民主党国際局副局長
●民主党大分県連代表

 

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吉良州司の生い立ち

【生い立ちと父母】

赤ん坊だった頃の様子私は 昭和33年3月16日、父、市雄、母、トシ子の次男として、父の当時の勤務地であった玖珠郡玖珠町森で生まれました。

父は厳格を絵に描いたような刑事畑の警察官で、「質実剛健」を3人の息子達に教え込もうとしていました。小さい頃から、「言い訳をするな!」「義を言うな!」という父の口癖に加え、「喧嘩をするな!しかし、どうしても喧嘩をしなければならない時は必ず自分より強い相手とやれ。そして、絶対に負けるな!」と言い聞かされて育ちました。自分で言うのは気恥ずかしいのですが、正義感が強くなったのは、子供心にいつも父の正義感を見ていたからだと思います。鍛えられたのは精神だけでなく、身体も鍛えられました。小さい頃、いつも兄弟間でレスリングや柔道をやらされ、小学校の時など、兄は400回、私は300回、弟も200回も腹筋運動をやらされていました。尚、中学、高校の頃は流行だったフォークギターに懲りましたが、父から見れば、「長髪でギターを弾いている」だけで立派な「不良」でしたので、中学時代はずっと丸坊主頭でした。好々爺になった今は孫のピアノ演奏を気持ちよさそうに聴いています。世の中は大きく変わりました。

幼少期の家族全員そろっての写真撮影母は、決して豊かではない家計の中で、男の子3人を育て大学まで行かせる為、肉や魚など栄養のあるものはほとんど子供に食べさせ、自分は漬物ばかり食べていました。また、自分達が小さかった頃の母は夜中までいつも別府の竹細工や毛糸編みなどの内職をしていました。そんな母を見ていましたから、小さい頃『あれがほしい、これがほしい』とは決して言えませんでした。次男坊の宿命で、服はお下がりと決まっていましたから、たまに親戚から新品の服をもらった時などは大喜びでした。小さい頃、実の親兄弟と暮らせなかった母は、家族の絆を一番大事に考え、親兄弟が支えあって一緒に暮らせることを何よりも幸せに感じていました。その一方で、あれは小学校3年頃のことですが、織田信長、豊臣秀吉などの歴史の読み物に熱中し、珍しく外で遊ばない日々が続いていた時には「男の子が一日中、家の中にいてどうしますか。外で元気よく遊んできなさい!」と叱られました。そんな気丈な一面も持つ母です。

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【小学校時代】

運動会での友人との記念撮影の様子小学校時代、『学校は自分を中心に回っている!』と思える程、学校生活を楽しみました。得意は何といっても体育。6年間を通じ、というより、高校までを含めた学校生活で体育の成績が5でなかったことは1回か2回だけです。ドッジボール、サッカー、短距離、長距離、走り幅跳び、走り高跳び、ポートボールなど体育の授業でやる競技は得意中の得意。吉良家の3兄弟みんなそうですが、小学校から高校まで、運動会、体育祭といえば、いつも紅白対抗リレーやクラス対抗リレーの選手として活躍する一年に一度の花形イベントで、それはもう親戚や父の職場の同僚まで呼んで披露する吉良家にとって鼻高々のお祭りでした。小学校4年生頃からは野球に熱中し、別府時代、中津時代は速球投手、3番打者、キャプテンとして野球チームを引っ張り、6年生の時には中津の校区地区大会で優勝投手になりました。

野球がオフとなる秋・冬期間にはサッカー選手(FWのインナー)として(当時はビッグアイがありませんでしたから)別府実相寺の県大会にも出場しました。別府の南小学校時代の放課後は野球の他、パッチン、ビー玉、こま、泥団子作りにも熱中し、土の上を這いずり回って遊びまくりました。特に別府時代は、あまりにも腕白の為、よく職員室の床上に座らせられたり、バケツを持って立たされたりしていました。

でもそのお陰で、学年以外の先生方にも有名になり、5年生の終わりに中津に転校することが決まるとほとんどの先生方が色紙に励ましの言葉を書いてくださり、校長先生は『お前がいなくなると学校から火が消えたごとなってしまうのう』と涙を流してくれました。中津時代はわずか1年間ではありましたが、吉良三兄弟の第一期黄金時代で、私は上述のようにエースとして野球の地区大会で優勝、兄(中学2年)は県陸上大会の走り高跳びで優勝、南部小学校のマラソン大会では私(6年)と弟(2年)が兄弟優勝しました。

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【中学時代】

中学時代は大分市城東中学野球部と野球部の悪がき仲間と過ごした3年間でした。

当時の中学運動部は男子は巨人の星にあこがれ野球部へ、女子はアタックNo.1に魅せられバレー部へという時代。野球部にも同学年で40人くらい入部しました。ショックだったのは「速球投手」を自認し、城東中学でもピッチャーになるものと思っていましたが、最初に身長や体重、遠投でピッチャー候補を決めてしまい、当時身長もそれ程大きくなっていなかったことと、何せ痩せていましたので、いきなり野手に転向させられたことです。

野球部時代の様子でも、幸いにも80人いた部員の中で、2年生から出場させてもらえるようになり、1番打者に定着しました。まあ、城東中学の「イチロー」とでも言えましょうか、リードオフマンとしてヒットや四球で塁に出ては盗塁を繰り返しました。足には自信がありましたので、1塁に出れば必ず3塁まで行きました。ホームスチールを決めたこともあります。

また、野球部には属してはいましたが、走ったり跳ねたりするのが得意だったので、陸上部の助っ人として大分市、大分県の陸上大会に参加して城東中学を市内2位に導くことにも貢献しました。因みに、参加種目は200m走、走り高跳び、800mリレーです。200mは決勝には進出しましたが、3位以内には入れず、高跳びと800mリレーは3位でした(この2種目は県大会でも入賞しています)。この頃弟は小学校の県陸上大会で、100m走、走り幅跳び、1000m走、400mリレーと参加した全種目で優勝するなど、吉良兄弟にとっての第二期黄金時代でもありました。

今でも当時の野球部の仲間と会うと必ず言われることが、中体連でのタイムリーエラーのことです。城東中学の校庭で行われた中体連の試合で、全校生徒が見守る中、接戦で迎えた最終回に私が三遊間の厳しい当たりを横っ飛びに捕球したまでは良かったのですが、一塁に大暴投し、その後送りバントとスクイズで同点にされ、優勝候補の筆頭と言われながら試合を引き分け、抽選により敗退してしまったのです。この大暴投は本当に落ち込みました。でも仲間も「おいおい、人の失敗をそこまで覚えとくなよ!」と言いたくなるほど、みんなそのことをよく覚えていて、集まると必ず酒の肴にするのですから、この先も一生背負って生きていかなければならないのでしょう。

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【高校時代】

私は、上野ヶ丘、雄城台との第2次合同選抜一期生として、昭和48年舞鶴高校に入学します。入学までの経緯と意気込みについては、「岩田学園での講演録」に詳述していますが、入学後は「復興・舞鶴」の為に精魂傾けました。それまで、上野ヶ丘の後塵を拝していた舞鶴を大分県一の高校にしようという気概で、生徒会の仲間や城東中学以来の友人達と一緒に3年間奮闘しました。

そのハイライトといえるべき事件が「霊山遭難事件」で、これも、講演録の中で、詳述していますが、大学受験を控えた三年の秋、それも中間試験の前日に、私と仲間二人(23回生の生徒会長を務めた男と中学からの親友)の三人が、霊山で一夜(世間から見れば)消息を絶ってしまい、翌日には捜索隊が120人も出動するなどの大騒ぎとなった事件です。

この経験が余程面白かったのか、それとも生来の冒険心がそうさせたのか、その後、大学では山岳会に入って岩登りや冬山を含む登山に熱中し、ブラジル留学中は、バスで2万キロも南米各地を冒険旅行するなど、波乱万丈の青年期を過ごすきっかけとなりました。

霊山遭難事件後は、「もう高校生活に思い残すことはない」と思える程充実感があったので、それからは落着いて勉強し、まぐれもいいとこなのですが、現役で東大の文科1類に合格できました。

舞鶴23回生の生徒会の仲間や城東中学以来の仲間達とは高校時代から「日本のあるべき姿」や「これからの世界」について、よく夜を徹して語り合ったものですが、今思えば、政治の道を志す素地はこの頃からあったのかもしれません。

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【大学時代】

頂上で山岳会メンバーの集合写真大学時代の前半は山また山、登山に明け暮れる毎日、後半は山岳会のリーダーをやりながら、一方では東大だけでなく他大学の有志も集めて「食料問題研究会」「国際政治経済研究会」という勉強会をつくるなど、元々勉強したかった国際関係論や国際政治など、世界に目を向けた勉強に熱中した日々でした。

「東大法学部山の会」というと何となく弁護士、判事、官僚、銀行員などの予備軍が一杯いる固いイメージを持たれるかもしれませんが、たまたま、私の同期達は「新人歓迎無料大コンパ!すき焼き付き!」という看板に魅せられて入会した極めて単純な連中(人を責められませんが)で、しかも、12人の同期の内、私を含む法学部生は2人しかおらず、まあ、一人を除くと固いというイメージからはほど遠い愉快な中間達でした。

ロッククライミングも(1月中旬〜2月の厳冬期を除く)冬山も楽しみました。冒険好きの私にとってはスリル万点の山男生活でした。無鉄砲だった私は、一度は鹿島槍ヶ岳での200mも含め数多く雪山で豪快に滑落したもあります。そんな冒険好きで、無鉄砲の私が在学生だけでも40人近くもいるこの会のリーダー(主将)になってしまったのですから、部員もたまったものではなかったでしょう。でも山で人の命を預かるという責任の重さを痛感し、リーダーとしての私は無鉄砲な行動は一切取りませんでした。冬山の吹雪の中で、あと一歩で頂上だという状況の中で撤退を決断し、「死んでも頂上をアタックする」と主張する先輩達と大喧嘩したこともあります。たとえ先輩であっても山ではパーティの全員がリーダーの指示に従うことになっていますので最後はしぶしぶながら従ってくれました。この山岳会での経験は本当に貴重な経験で、生死の狭間での数々の判断はこの先色々な場面で私を助けてくれると思います。

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【日商岩井時代】

日商岩井のホームページには、同社への就職に関心を持つ学生のためのコーナーがあり、そこで、日商岩井が誇る十人の社員が「日商岩井人」として紹介されていますが、その筆頭に私が取り上げられています。この「日商岩井人」の吉良州司部分を本ホームページに転用することを日商岩井が許可してくれました。入社から退社前までの足跡をコンパクトにまとめてくれていますので訪ねてみて下さい。

「日商岩井人」を表示する

日商岩井は、これが当たり前だと思って会社生活を送ってしまうと他の会社では窮屈過ぎて1ヶ月ともたないと言われる程、自由で、個性と自主性を重んじる風通しのよい、非常に働きやすい会社でした。個性が強く、自分の信念を貫きたいと思うタイプの人間、まあ「我儘で暴れん坊」の性格の人間にとっては最高の会社でした。

その会社に自分は感謝してもしきれないくらい大事に育ててもらいました。14年前、自治体に出向するなどという制度はありませんでしたが、「地方が元気にならなければ、真に豊かな日本は築けない。是非自分を故郷大分の県庁に出向させてくれ。そうしなければ日本がよくならない!」というわがままでえらそうな主張を会社は受け入れてくれました。この研修出向中、会社が給料を払ってくれていたのですから大恩があります。

また、その数年後、当時の会社の仕組みからいけば、地方自治体への出向という寄り道をした自分を、世界の中心ニューヨークに、しかも若いながら採算責任を持つ立場で派遣してくれました。

それだけに、辞める際、「自分は、これだけ大事にしてもらった会社にまだ恩返しできていないのではないか」という思いが強く、精神的には大変苦しい決断でした。

現在、日商岩井は危機を脱する為にあらゆる対策を講じて奮闘していますが、一刻も早い復興を祈らずにはいられません。

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【大分県庁出向時代】

1990年、私は大分県庁に研修出向という形で故郷に戻ってきました。企画総室地域振興課、農政部流通園芸課、商工労働観光部商工振興課に合計1年9ヶ月お世話になり、この間、地域振興策、農業振興策、商工振興策などを勉強させてもらいました。

職場に訪れた2人の娘との記念撮影そもそも大分県庁への出向の発端は、日商岩井の若手有志による会社の「改革運動」でした。「コンセプトは脱藩」、「倜儻不羈(てきとうふき)の精神」(独立して束縛されないこと)を旗印に、自ら事業を興していくこと(企業内ベンチャー設立)をはじめ、一度大組織から離れて活動することを仲間と誓い合い、私は「地方の活力なくして日本に真の豊かさは築けない」との問題意識を持って、当時の速水社長(現日銀総裁)と大分県側を説得し、大分県庁に受け入れてもらいました。

この県庁時代は、会社とは一味違う面白さを味わせてもらいました。各地で活躍されている村おこしリーダーの方々、補助金なしで立派な経営をされている農家の方々、親身になって県民の声を聞く県庁職員、市町村職員の方々などと接する機会を得、多くのことを教えて戴きました。その方々の姿が目に焼きついているからこそ、この方々と一緒なら「元気な大分が創れる!」と確信している次第です。

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【ニューヨーク時代】

私は1995年4月から2000年9月まで、日商岩井米国会社(NIAC)ニューヨーク本社に出向し、5年半、家族とともにニューヨーク近郊のニュージャージー州に住み、テロの対象となってしまったワールド・トレード・センターのあるマンハッタン島に通勤していました。

ニューヨークには赴任前にも10回程度出張してましたが、短期間ホテルに滞在するのと家族共々住みつくのとは大違いで、毎日の生活の中で改めて米国のすごさ、素晴らしさ、豊かさを実感していました。米国が持つこの時間、空間、気持ちのゆとりを含む本当の意味における豊かさについて、日々学ぶことが多く、家族にとっても「真の豊かさとは何か」を問いかけ、実感できるかけがえのない経験となりました。

このニューヨーク時代には年に1-2度「ニューヨーク便り」と称して、米国社会の様子、その米国社会で悪戦苦闘する家族の様子、私の仕事のことなどを盛り込み、日本のみなさんに送らせてもらっていました。多くの大分の方々にも読んで戴きました。

 

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