134「今日、自分があるのは誰の御蔭か」 2009年08月15日
本日は、終戦記念日です。この日に合わせるかのように、私の敬愛する先輩から、「今日、自分があるのは誰の御蔭か」というHPメッセージを読み返し、改めて感動したという連絡を戴きました。 そこで、今日は、終戦記念日にちなみ、そのメッセージを本日のために書き直したメルマガをお届けいたします。 長い文章になって恐縮ですが、最後まで読んで戴ければ幸いに存じます。
私は、高齢者の方々と接する度に「この方々の御蔭で今の自分があり、今の豊かな日本がある」と思っています。年老いた顔の皺に「若い頃の苦労」「黙々と働く姿」が見えてきます。「これだけ苦労して今の豊かな日本を築いてくれたこの方々に何とか恩返ししなくては」と思います。 私は、政治の道を志して以来、次のような「高齢者への感謝の念」についての文章を掲載し、辻立ちや集会で、そのことを直接語ってきました。
「『戦中、戦後を生きぬいた高齢者の方々に感謝の念を!そして、その高齢者が健在の内に真の改革を成し遂げたい!』 終戦直後、芋や大根の葉を食べながら気力だけを栄養として生き抜いてきた世代、家族には二度とひもじい思いをさせないとの一念から昼も夜もなく必死に働いて、働いて、働き続けた世代、焼け跡だらけの廃墟から驚異的な経済発展を成し遂げた世代、自分達は勉強したくても出来なかったが故に自分達は食わず休まずとも子供に高等教育を受けさせ、その子供に将来の夢を託した世代、古きよき価値観を決して失うことなく、常識ある、いや学歴に関係なく高い見識を持った市民であり続けた世代、愛すべき自分の父母の世代が、今、年老い、現役を退き、そしてこの世から去っていこうとしています。 いつも涙なくして見ることの出来ないNHK番組「プロジェクトX」は、この世代が我々に残してくれたものが、如何に大きく貴重なものであるかをいつも語りかけてくれます。これらの世代は農家、商家、サラリーマン、町工場、企業家、公務員かを問わず、その従事した職業を天職と考え、それぞれの持ち場で一所懸命働き、ひとりひとりみんなが日本復興の立役者でした。昨今の日本の世の乱れを目の当たりにする時、古きよき時代の価値観の体現者が今ほど必要な時はないでしょう。それだけに、この世代を失うことが今の日本にとって、どれだけ大きな痛手であるか計り知れません。この世代が去り行く前の今こそ、日本の、そして故郷の古きよき伝統、文化、価値観を見直し、若い世代に伝えていかなければならないと思います。同時に、あの廃墟の中から不屈の精神で日本を復興させてくれた、その勇気と知恵と経験を今こそ現役世代に伝授戴き、その力を借りながら、今必要な改革を、たとえそれが痛みを伴う改革であっても、断行したいと思います。 吉良州司 」
「今日、自分があるのは誰の御蔭か」という問いかけは、大人になってから自分で発見する、気がつくこともあるでしょうが、親が子供にしっかりと教え、伝えていく必要があると思っています。 私が米国駐在中のことです。このテーマに関係する新聞記事(英語の新聞ではなく、日本語で書かれた読売新聞の米国版)を当時小学校6年生になったばかりの長女に読ませました。私は、子供達が分かろうが分かるまいが、いつも、自分が持っている問題意識を自分の子供達に熱っぽく語っています。まだ11歳の長女には難しい内容だとは思いましたが、何とかわかってほしい、理解できないことは一緒に読んで教えていこうと思い、読ませました。 長女は当時ニューヨーク日本人学校ニュージャージー分校(この「分校」という響きが大好きです)に通っており、当時は中学がなかったので6年生は最高学年でしたが、生徒は5人しかおらず、その為、先生も生徒一人ひとりに目が行き届く、素晴らしい環境で、毎日、先生と日記をやり取りしていました。長女はその毎日の学習日記に、その新聞記事を読んだ感想を2回書いています。
<1996年5月24日付の長女(当時ニューヨーク日本人学校ニュージャージー分校6年生)の「毎日の学習」日記より>
『「これ、読んでごらん」 と一枚の新聞記事を渡された。「偏見正した地方紙」とリードがあった。こういうリードがあって中味を読んでみてもさっぱり分からなかったので、お母さんに聞いてみた。 それはこういう事だった。第二次世界大戦前に日本人がもうアメリカに住んでいた。そして、戦争になったから、敵が日本――つまり母国――、でも日系二世はアメリカ軍として戦った。しかし、敵は日本なので、いくらすぐれた兵士でも「どこで戦死したか分かったもんじゃない」などと冷たい目でアメリカ人から思われていた。そのことを知った日系人部隊司令官アンレイ中佐は激怒し、「日系二世の兵士は素晴らしい。彼らがどこで戦死したか私はよく知っている。ひとりの軍曹は砲弾の破片が負傷した将校に当たらないように身をかぶせて死んでいた。それに冷たい目でみられている中で、彼らは立派に戦い抜いたことは素晴らしい」という手紙を出した。それを新聞に全文を載せた新聞社がいた。それは日系米人として数少ない救いであった というようなことが書いてあった。 私は感動した。何が感動したかといえば、日系二世の兵士達、中佐、新聞社の行動だ。特に日系二世の兵士だ。私だったら、冷たい目で見られている中、あんな素晴らしい行動など取ろうとも考えられないだろう。戦争は大嫌いだけど、苦しみを乗り切って、努力するという、とても大事なことを学んだ。』
<1996年5月29日付の長女(当時ニューヨーク日本人学校ニュージャージー分校6年生)の「毎日の学習」日記より>
『「偏見正した地方紙」をはじめて読んだ感想を書き終えた後、父の話を聞いて、あの新聞記事は「何事も努力しよう。苦しい時も」という意味だけではないということが分かった。 父が言ったことは、「日本人はきっと日本の味方をしているだろう、と思われている中、自分の家族がアメリカで差別されずに生きていけるためには、自分が死ぬことでアメリカに忠誠を誓っていることを分かってもらうしかなかった。その為に将校を守ったりしたんだ。そのことも分かってほしい」ということだった。 私は、そのことがどこで分かるのかと思い、再度読み返した。分かるな と思うところはしっかりと書いてあった。「戦場に行けば死んでしまうかもしれないけど、家族が差別されないという確信を持たせて」という風に。でも冷たかったから自分が死んだのだろう。 父は、「戦争は悪いことだけど、その時に死んでまで家族を守ろうとしてくれた人達がいた御蔭で、今、日系アメリカ人が活躍できているし、自分達のように日本から来ている日本人もアメリカにいることができる」と言った。今、アメリカにいられるということは、兵士さんたちにお礼を言わなければならない。本当にありがとう。これらのお礼も含めて、日本人の気持ちをアメリカ人に分かってもらえて本当によかった。ありがとう。』 (当時の小6長女の日記)
ことの本質がどこまで判っているかわかりませんが、幼いながら必死に、内容を捉えようとしていることは確かです。その結果、納得できるまで親に聞き、そのことを2回も日記に書いています。 その1996年5月24日付読売アメリカの記事を掲載します。
『読売アメリカ新聞 1996年5月24日付 <偏見正した地方紙> ヨーロッパ戦線で、日系2世の兵士が米戦史上まれにみる多大な犠牲者を出したことは前に幾度も触れた。そのころ、カリフォルニア州内では、「ジャップ」帰還反対運動が高まりを見せており、その風潮は遠くコロラド州にまで波及していた。同州議会は「日本人問題」に関する公聴会を開いた。 コロラド州は他の西部諸州に比べ日本人に対しては寛大な態度をとっており、太平洋戦争勃発後、非軍事区域であったため大量の日本人移住を認めていた。しかし、戦局の変化に伴い、事情も変わってくる。「私は反日本人の立場をとるカリフォルニア州が間違っているとは思わない」という証言にみられるように一般市民の間には反日の風潮がみなぎっていた。 この公聴会では9人の日系兵士が証言している。 「私たちは海外の戦地へ行くことになっています。いったん戦場に行けば、飢え、傷つき、そして二度と帰ってこられないかもしれません。どうか、ここに住んでいる私たちの愛する家族が差別、排斥を受けることはないという確信をもって戦場に行かせてください」 しかし、戦時中の世論は米国軍隊に籍をおく日系兵士にさえ冷たかった。「新聞報道によると、この国のジャップ・アメリカンにはすぐれた兵士もいるという。しかし、すぐれたジャップ兵がいるといっても、どこで戦死しているかはわかったもんじゃない」 ノースダコタ州のマンダンという町の地方紙・編集長チャールス・ピアースはこのような記事を書いた。この切抜きを読んだジェームス・ハンレイ中佐は激怒した。ハンレイ中佐は同町出身、日系部隊・第二大隊の司令官である。同中佐が編集長に送った手紙が同紙に掲載された。 『「チャーリー、私はすばらしいジャパニーズ・アメリカンがどこにいるか知っている。この部隊には約5千人がいる。かれらはアメリカ兵である。かれらがどこで戦死したか、私はよく知っている。(略)ひとりの軍曹を思い出す。彼は、そう、ジャパニーズ。アメリアカンである。彼の背中は真っ二つに割れていた。彼が何をしたかといえば、負傷した将校の身体の上に自分の身体をかぶせていたのだ、砲弾の破片が将校に当たらないように」 このあとテキサス部隊救出などいくつかの事例を挙げ、さらにハンレイ中佐は「驚くべきことは、あなたが書いた記事のような人種偏見に満ちた環境で生活していたにもかかわらず、彼らはりっぱに戦い抜いたすばらしい兵士たちであることだ。冗談としてはおもしろいかもしれないが、それは偏見を増長させる類の冗談にすぎない。そして、アメリカの理想を信じていないことを示すにほかならない。チャーリー、戦地にやってきてごらん。ジャパニーズ・アメリカンがどこで戦死したか案内してやろう」 ハンレイ中佐は日系二世部隊の中隊長として幾度も死線を越えた将校である。同中佐が戦地から送ってきた手紙を読んだピアース編集長は全文を同紙に載せた(1945年5月10日付)。
身近な日系米人を「敵のいけにえ」として攻撃している多くの米紙のなかにあって、過ちを素直に認め「一通の手紙」を載せた一新聞人の勇気は、日系米人にとって戦時中のアメリカにおける数少ない救いであった。』
(以上記事)
説明するまでもなく、この欧州戦線の最激戦地に送られた日系兵士達の家族は罪もないのに、砂漠の強制収容所で生活させられていました。そして、この愛する家族の為に、愛する家族が偏見や差別を受けずに米国で暮らせるようにと、自分達は白人米国人の将校を命がけで守り、否、死ぬことによって守り、そして、米国への忠誠を示したのです。 現在、日系米国人が大臣になるまでに活躍していますが、今、「米国人」として何ら差別されることなく暮らせているのは、この方々の御蔭以外の何物でもありません。このことを日本語や日本文化を忘れた現在の日系3世、4世にも記憶に留めておいてもらう為、全米日系人協会では、博物館や資料館を建て、当時の米国政府に対する批判の意と、死んでいった大恩ある方々への感謝の意を表しています。私もこの記事を読んだ後すぐにこの建設の為の寄付をしました。 日本も現在、「100年に一度の未曾有の経済危機」などといっては、ばら撒きを正当化している人達がいますが、ある高齢者の方々から先日、次のようにいわれました。「『100年に一度の未曾有の経済危機』などと言っているが、戦中戦後のあの何もかも焼け野原になった時代を経験している私達に失礼な話しだ。あの時代は100年以上も昔の話ではない。あの時代を経験している私達からみると、今(リーマンブラザーズ以降の経済不況下ですら)でも充分豊かだと思う』と。 現在を生きる私達が、豊かな生活ができるようになったのは、国を想い、家族を想い、戦地に散っていった方々、その方々の無念や残された家族への想いを受け止めて、「ここで頑張らなければ、戦死していった人達にあわせる顔がない。何としても日本を復興せねば!」と、休むこともなく働き続けてくれた現在の高齢者の御蔭です。この8月15日は、このことを次世代に語りついでいかなければならないと思います。 戦没者、そして、高齢者の方々に感謝、合掌。
-吉良州司-
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